「教員」だったからこそ「飲食店起業」へ

お久しぶりです。
ただいま実店舗オープンに向けて猛準備中!!
料理担当のともえです。
料理担当ですが、現在急ピッチで進めているDIYでは主に壁塗りを担当しております。ペンキや漆喰の塗り方のコツを見つけていくのは、料理の手際をよくしたり、素材の特性に気づいたりしていくことと似ているななどと思いながら毎日いろいろなところを塗りまくっています。

突然ですが、今日はよく聞かれる『どうして飲食店をするようになったのか』ということについて書いていこうと思います。似たようなことを聞かれるので、ここではまとめてこのように書きました。しかし、聞かれ方は様々でも、多くの方が同じ疑問を抱いてこの問いを投げかけてこられるのかなとこの2年間で感じてきたので、そこに焦点を当てて、書き綴っていきたいと思います。

『どうして飲食店をするようになったのか』の元にある疑問

私たちは元教員であったことを隠さずに今飲食店を始めることを公開しています。そこには、私が今まで明かしてこなかった思いがあるからです。そして、前述したような問いは、どうして教員から飲食店経営に仕事をシフトしたのかということに疑問を感じている方が多いからではないかと想像しています。「学校の先生って大変ですよね。」という労いの言葉をいただくこともあります。(現職ではないので労いとは違うかも?)月並みではありますが、忙しい上に配慮が要るデリケートな仕事ではありますが、その分大きなやりがいのある仕事であると感じています。だから、教員が嫌で辞めたのではないということを、これまで受け持ってきた児童や生徒、保護者、同僚への思いも込めて明確に示しておきたいと思います。むしろ、大学を卒業して2週間後には40名の児童の担任になったときも、プレッシャーももちろんありましたが、共通認識や教育範囲を他クラスと共有しながらも、1年目から自分の好きなことを自分の裁量で子ども達と共有できる学級担任という仕事を天職と思えるほどのやりがいを感じておりました。私が教員という仕事を始めたのが、13年前。約10年の間、小学校と高校(常勤講師)で教壇に立たせていただき、今でも自分の財産となっています。しかし、このたった約10年の間にも、教育現場には大きな変化がいくつもありました。数をあげればキリがないのですが、全てをひっくるめて申し上げると、学校が担う役割はとても多くなり、教える内容も多岐にわたっているいうことです。初任で教員になったときに、子ども達が1人1台支給されたタブレットを持つようになるとは思ってもみませんでしたし、授業でプログラミングをするような時代になるとも1mmたりとも思いませんでした。なんなら初任校は職員室に教員用パソコンは2台しかなく、教員1人1台のパソコンもなく、教材や学級だよりも手書きという方も多かったです。しかし、このタブレットに救われたのは、最後の教員人生となる未曾有のウイルスに悩まされた年でした。今までになかった校務分掌(会社であれば部署のような仕事)でICT担当なるものに命じられ、子ども達がどのようにICTに触れていくかということを模索していた矢先に、教育現場がコロナウイルスで休校や新しい生活様式の対応を余儀なくされました。ただ、配属されていた市町村がICT教育の先行研究をすすめていたため、タブレットを使って学習をすすめていったり、体育館で一同に集まることができなくても、各クラスでリモート集会やイベントができたりと、非常にICTに助けられました。私も、そのおかげで長崎に居ながら、東京ビッグサイトで行われたICT expoなるもので、自校で行っているICTの先行事例を発表したり、リモートで子ども達とテレビに出演したりと印象に残る活動に取り組むことができました。
ここまで話して、じゃあなんで教員を辞めたのか…ということにさらに疑問を持たれたかもしれません。それは、教員をしながら常に感じていた自分自身の疑問が確信に変わってしまうできごとがあったからなのです。

これからの学校が担っていかなければならないこと

約10年間の中で、すごく子ども達が忙しくなっているなと感じていました。塾に行ったり、習い事に行ったり、学童に行ったり…それを否定的に見ているのではありません。ただ、単純に子どもがもろもろの用事を済ませて家に帰り着く時間が年々遅くなってきているなと感じていたのです。自分が子どもの時は、家に帰ってすぐに友達と駄菓子屋に行って、5時のチャイムがなるまで遊んで、家に帰って宿題をしてご飯を家族みんなで食べて、テレビを見て、お風呂に入って、9時に寝るという毎日夏休みだったんじゃないかと思うくらい、友達と遊ぶことに夢中になり、家族とゆっくりすごしていた印象がありました。それは、私の場合単に母が家にいる時間が多かったから実現できたのだなと今になると思います。また、同居する祖父母がいる家庭はご飯が用意される時間が早かったり、宿題を見ることができる大人がいたりと今の家族の形とは少しだけ異なっていたように感じます。
そのことを、ある研修でズバッと講師でこられていた大学の教授に言われてしまったのです。
『両親共働き、核家族が進む中で子どもがゆっくりする時間が減っている。その分家族で過ごす時間は格段に減っている。家族といる時間が少ない中で、誰が躾をするのか。それは、今学校がやらなくてはいけなくなってきているのです。』と。
躾という言葉があまり好きではありませんが、そのほかに言い換える言葉がうまく見つからないのでそのまま書かせていただきました。しかし、学校だけではありません。忙しくなっているのは、働く時間が圧倒的に増えている親御さんも一緒です。もう、これについては、どちらを責めようもありません。何か手立てを打たないと、学校も家庭も疲弊してしまい、世の中は鬱々と病んでしまうのではないかと強烈な恐怖で頭をガーンと強く殴られたような感覚に陥ってしまったのを今でも鮮明に覚えています。誰かがどうにかしないといけない。そう強く感じたのが、私を突き動かした原動力でした。居ても立ってもいられなかったと言う表現が1番近いように感じます。

学校と家庭以外にも『地域』があるという考え方

実は、学校と家庭以外にも教育の場があり、それは『地域』であるという考え方は以前からありました。私が初めて具体的にこの研究に取り組まれていることを知ったのが、教員4年目の時。それは、岐阜県の公立高校で教員をされていた浦崎太郎先生という方(現在はご退職され、大学で教鞭を執られています)が学校で教えられることは飽和状態に近いため、地域との協働が必要不可欠であるという考えの元に行われていた教育実践でした。高校枠を飛び出して、地域と協働しながら様々な取り組みをする中で、勉強の意義を知ったり、能動的に動く力が付いたりと、これから子ども達が生きていく上で必要なことを身につけていこうとするこの教育実践を知った時に、学校と家庭と地域の連携は不可欠だなと改めて思い知らされました。あの時は、子ども達の力を伸ばす上で、必要不可欠だと感じていたのですが、今は、学校と家庭の子どもにかかる責任の比重が大きすぎる中で、地域が担えることもあるのではないかと感じています。しかし、学校や家庭、子ども達に共通して関わることができる場所は多くありません。どこならばそれが実現可能かと考えたときにその時の私に思いつく範囲が「食事」だった。それが、私が飲食店を始めようと思った大きなきっかけです。忙しい時の家庭の助けにもなりえるし、食事はこころの栄養にもなる。何かのきっかけで、他者と出会える、また交われる開かれた場が「食事」ではないかと考えました。今は、その程度のことしか思いつくことができていませんが、もっともっと深堀りし、食という切り口から地域の一員として、そして、子ども達を見守る一員として、何か役に立てることがないかと多角的に考えていきたいと思います。

こんな理由だと、後先考えられていないかもしれないし、そんなに簡単なことじゃないだろと思われることは重々承知の上です。だから、迷惑がかかるかもしれない家族には一番に相談しました。夫や両親、義理の両親。起業をする上で、家族の応援は最低条件です。身内にも応援されない起業にファンが付いてくれるはずがないからです。心配はたくさんかけていることは痛いほど分かっています。しかし、家族は理解し、自分たちのことのように応援してくれます。手を貸してくれます。本当にありがたい限りです。そのおかげで、神出鬼没のスパイスカレー屋から、今実店舗へとあゆみが進められています。
そして、これまで応援してきてくれたたくさんの方々に、まだまだがんばれ!と応援してもらえるように、目の前のことに集中しながらも、その先を見据えながら、何年後になるかわからない自分の思いの実現に邁進して行きたいと思います。

子ども達は社会の宝です。

そして、その子ども達を支える、家族や学校も社会の宝です。

チエノワ
寺澤 智恵

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 読ませて頂きました。元々先生だったのですね。そこから、飲食への移る時の想い。とても素晴らしいと感じました。
    ますます、ファンになってしまいました。
    応援させてくださいね♪

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